英語を話す日本人がうざく見られてしまう原因を真剣に考えてみた

 

 

ぼくは英語が話せますが、別にすごいことだと思っていません。むしろ、英語が話せることが普通で話せないことの方が珍しいんじゃない?と思ってるくらいです。いろいろごめんなさい。

 

なので、ぼくは人目を気にせず自分の英語を披露してしまう傾向にあります。別にぼくは見栄張りなわけでも承認欲求が強い方でもありません。ただ、英語を話す状況にあったらから話すだけです。

とは言いつつ、流暢でキレイな英語を話すのか?と言ったらそうでもありません。意思疎通ができる英語を話せるレベルです。英語界隈の発信者たちと比べるとミジンコクラスだと認識しています。

 

そんなぼくですが、英語を話していると、時折白い視線を感じることがあります。まるで、恥ずかしいものを見るような目で見られるのです。少し気まずさも感じますし、でしゃばってる感を感じさせられもします。

面白いですね。日本人(一部は)は何かと英語を話す人を白く見る傾向があるんだよなあってうすうすと感じています。「なんでなんですかね?」少し深く考えてみたいと思います。

 

うまく考察できるか分かりませんが、どうぞ!

 

 

海外かぶれは確かに気持ち悪い、でもなぜ気持ち悪い?

英語を話している人が白い目で見られがちなのは、海外かぶれだと思われてしまうのが一つの原因だと考えています。確かに海外かぶれの人は見てて気持ちいいもんじゃありませんよね。

なんかうざいというか、鼻につく感じがします。ここで海外かぶれについて再定義しておくと、“自身の所属する文化よりも西洋文化を良しとして、振る舞いや服装などを西洋文化のそれに似せること、あるいはそのように振る舞う人物を指す蔑称”となっています。

 

つまり、「日本文化は狭苦しくて俺には合わない、俺にはもっと優雅な西洋文化の方が似合ってる」と身振りや服装でそう発言しちゃってる人のことです。

まあ、これだけでも十分気持ち悪いですが、まだ根拠としては不十分です。どうして海外かぶれを見ると気持ち悪くなるのか?の明確な答えにはなっていませんよね。

 

で、ここで問題になるのが、“自身の所属する文化よりも西洋文化を良しとして”の部分です。つまり、西洋文化を良しとすることで、無意識に日本文化を否定してる姿が気持ち悪く見られてしまう根本原因なんじゃないかということです。

つまり、日本人としての防衛本能が働くということですね。まあ誰だって自分のアイデンティティを否定されたらムカつきますよね。自分そのものを否定された感じがするので。

 

だから海外かぶれの人を見ると無意識のうちに相手を卑下することで、日本人として自分の帰属意識を守ろうとしてるんだと思います。それが、「なんか気持ち悪い」「なんかうざい」「なんか鼻につく」という感情になって現れるんですね。

まとめると、海外かぶれを気持ち悪いと思うのは無意識に自分自身を守るためで、英語を話す人を見ると海外かぶれな気がして白い目で見てしまうというのが一つ目の原因だと考えました。

 

 

下手くそなのに”ちやほや”されているという嫉妬感

笑顔な顔と嫉妬してる顔

英語を話すと白い目で見る人がいる一方で、必ず褒めてくれる人がいるというのも事実です。実際、ぼくが会社の飲み会で英語を披露したとき、その場にいた多くの上司と同期はベタ褒めしてくれました。

そして、やっぱり人間のサガというもの、自分より楽しそうな人、幸せそうな人、うまく行ってる人を見ると嫉妬してしまうものです。

 

ましてや、そんなに上手くもない人を見ると尚更嫉妬の感情は強まってしまいますよね。「こんな簡単なこと、俺にもできるわ。」「あれくらい、俺だって勉強すればすぐにできるのに」ってなるでしょう。

そして、その嫉妬の感情をうまくコントロールすることができなくなって、ついつい白い目で見てしまうんでしょうね。これが英語を話す人が白い目で見られがちな第二の原因だと考えます。

 

それじゃあ、ネイティブのようにナチュラルに話せば嫉妬はされないのでは?下手くそなのに”ちやほや”されるから嫉妬するのであって、もっと上手だったら平気なんじゃないの?と思うかもしれません。

しかし、ネイティブのようにいくら流暢に話しても嫉妬の視線からは逃れられないでしょうね。なぜなら、嫉妬する人は自分の人生に満足しておらず、ただ他人にも同じ不幸を味わせたいと考えているからです。

 

英語がどうこうというより、英語を話して”ちやほや”されているという事実そのものが嫉妬の感情を引き起こしているということですね。英語はたまたまそのきっかけになってしまったってだけです。

つまり第二の原因では、英語そのものより、英語を話す行為が間接的に白い目で見られる原因を作っているってことですね。

 

 

違うことは悪!出る釘は打てという悪き固定観念

ぼくらは小学校、中学校、高校と集団行動の大切さをとことん教え込まれてきました。集団行動では、みんなに合わせることが正義でそれを乱すことは悪でした。

正直、ここまで徹底した規律教育をまだ人格形成がされていない小学校の頃からされると、嫌でも価値観が支配されてしまいます。かなり恐怖を感じますね。

 

実際、ぼくも高校を卒業するまではガチガチの固定観念に人生を縛られていました。真面目に大学に行って、就職して、40年間会社に務めることが成功した人生だと信じていました。

だから、その道を踏み外そうものなら完全な落ちこぼれで、集団行動ができない”問題児”になってしまうという恐怖心がいつも心のどこかにありました。

 

また、集団行動では目立つことをしてはいけません。なぜなら集団の秩序が乱れるからです。だから自分1人だけ早歩きをしてはいけないし、1人だけ歩幅を変えてはいけません。

そしてまさに、このみんなと違うことをやったり、1人だけ目立ったことをやるのは悪!という固定観念が英語を話す人を白い目で見てしまう3つ目の原因だと推測します。

 

つまり、自分だけが英語を流暢に話し目立ってしまうことで、でしゃばってる感を出してしまい、集団行動を乱したとして白い目で見られてしまう原因になっているということです。

みんなと同じ行動をすることが正義で、ひとりだけ違うことをして目立つのは悪だ!という古き悪き価値観が、自分も知らぬうちに染み付いてしまっているってことですね。

 

 

人の英語を白く見るのは日本人だけなのか?

では最後に、英語を話す日本人はうざく見られるけど、日本語を話す外国人はどう見られてるのか?ということについて話していきます。

実際ぼくはモンゴル生まれのハーフで、モンゴルの企業で日本語の講師をしていた経験もあります。他にもオーストラリアで日本語を話すオーストラリア人にも会ったことがあります。そのときに感じたことを紹介していきますね。

 

結論から言うと、モンゴルでは一生懸命に日本語を話す人を他の人が白い目で見る風潮はないように感じました。というより、みんな自分のことで精一杯なので、そもそも他人に関心がないようです。

これはオーストラリアにいたときも、アメリカにいたときも感じました。他人が何をしようとも、何を話そうともぶっちゃけどうでもいいやんっていう空気がありましたね。

 

つまり、自分が見たり経験したりしてきた中で話をすると、外国の人っていい意味で他人に関心がないようです。それは、日本語を話している人を褒める訳でもなく冷ややかす訳でもない姿からそう感じました。

あいつが勝手にやってることだから、自分にはどうでもいいじゃんってスタンスで、みんなかなりフレットな態度をとっていましたね。

 

て考えると、日本人って他人への関心が高いってことなんですかね。他人への関心が高いから、いちいち嫉妬するし、白い目で見るし、マウントを取ろうとするもかしれません。

じゃあなんで日本人は他人への関心が高いのか?その理由をぼくなりに考えてみて、たぶん日本人って暇なんだよなっていう結論に至りました。

 

暇だから自分と他人を比較する余裕があるし、暇だから他人の荒を探して時間を潰しているんだと思います。だって自分のことに忙しい人ってそんなことしてる”暇”ないですよね。

つまり、英語を話してる人を白い目で見れる暇があることが、英語を話す人がうざいと感じてしまう4つ目の原因だと推測します。

 

 

まとめ

以上、なぜ英語を話す日本人はうざく見られてしまうのか?について真面目に考察してきました。

考察の結果、以下の4つが原因だと推測できました。

  1. 自己の防衛本能
  2. 嫉妬の感情
  3. 悪き固定観念
  4. 暇があること

 

まあ大切なことは、短い人生他人に干渉してる暇があったら自分の目標のために積み上げをしようってことですね。

どこにいっても笑ってくるやつはいるので、未読スルーしてやりましょう!そして、人のことは構わず英語で話し続けていきましょう。

 

ぼくはこれからも自分の英語に誇りを持って生きていこうと思います♪

 

以上、すぐるの戯言でした!

 

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