感情と理性の葛藤:旧統一教会と解散命令の背後にある倫理的ジレンマ
変化を生まないと意味がないのか。世界に、社会に、我々に問題は山積みである。世界は問題の工場だ。それぞれの国家、組織、個人は、それぞれに正義と大義名分を掲げ、利益を追求する。衝突する。そして、犠牲を生む。善と悪は共存し、変装し、偽り、形を変える。戦う人は敗れ、世界は忘れ、過ちは繰り返し、学ぶ人はまた嘆く。
2022年7月8日午前11時31頃、安倍晋三元首相が、手製の銃火器によって、旧統一教会に恨みを持つ男性の銃撃によって命を落とした。平成の日本を導いた偉大な政治家の暗殺は世間を大きく揺るがした。この事件によって、長い間安寧を享受してきた旧統一教会の悪事数々は白日の元に晒され、文科省によって東京地裁に解散命令が請求された。
人の心はとても弱く脆い。理性的論証によってのみ、ある事象を議論することは難しい。旧統一教会による高額献金問題が明るみに出た時、脊椎反射的に酷いや許せないという感情が先行してしまう。被害者たちの話を聞いて同情を寄せた時、私たちは一種の洗脳状態になり、情報の取捨選択に大きな偏りが生まれる。安倍晋三元首相の訃報が入った時、容疑者に対して怒りが湧いた人達も、彼の暗殺動機を知るにつれて同情を寄せたかもしれない。世間から大きなヘイトを集めた旧統一教会に解散命令請求がされたと聞けば、シンプルな勧善懲悪ストーリーはすぐに受け入れられ、心を復讐欲で満たすことができる。旧統一教会が提供してきた善の側面は、話を複雑にするので人々はもう見ない。
旧統一教会は必要悪だろうか。信者から集められた多額の献金は自民党の選挙活動資金となり、間接的には国家運営に貢献したとは言えないか。社会保障や公共福祉のために多くの税金が自民党の下、より良い配分を目指した案の上で使われ、功利主義的に考えれば、少数弱者からの搾取によって多数国民の幸福が叶えられている現実もあるかもしれない。資本主義に優生思想を当てはめ功利主義的に考えれば、競争社会の敗者のお金は1円でも多くエリートが持つべきであり、エリートによってより効率的に使われ、社会の発展に役立てた方が将来的により多くの幸福を全体にもたらすかもしれない。大規模カルト教団が存在している方が、結果的に最大多数の最大幸福に貢献するのではないか。だがしかし、倫理を捨てればカオスが待っている。中南米の麻薬カルテルは多くの雇用を創り経済を支えるが、果てしない残酷を生む。兇悪に溢れ、絶望を辞めさせてくれない、複雑怪奇に絡むこの世界で、問題の解決は困難を極める。そんな世界で、社会で、私たちに唯一できることと言えば、倫理を忘れないことである。
解散命令は、実質的な問題解決をしない。憲法20条には信教の自由が規定されている。最高裁によって解散命令が決定した時、旧統一教会は宗教法人としての資格を失うことになり、税制面での優遇がなくなるだけに過ぎない。宗教団体としては、依然として活動は続けていくことができる。新たに信者を獲得し、献金も受けるだろう。今まで以上に巧みに、慎重に、そして大義名分の下、弱者から多くを搾取することだって可能だ。これは責められるべきことだろうか。感情論が先行し、教団の徹底的な解体を望み、それが叶ったとして、社会がより良いものになるだろうか。高額献金が行われている宗教団体を即時カルト教団と見なし、否応なしに排除した所で、浅い正義感に踊らされた大衆にカタルシスを与え、怒りの鎮圧によって政権維持が得られるのだとしたら、その見返りとして信教弾圧の歴史を再開することは釣り合うのだろうか。到底そうは思えない。変化を生まないことは本当に意味がないことなのか。
私たちは全体を見ないといけない。一人一人が中立的な立場になって、双方の主張を受け止め、吟味し、考えなければならない。感情論が先行し、情報の取捨選択が偏ると、問題は複雑化し対立と不和を生む。一部の悪は時折、大部分の善を覆い隠すほど大きく見えることがある。本能的道徳心から、脊椎反射的に悪を糾弾したくなる気持ちを抑制し、コントロールしないといけない。私たちは早急に決断を出してはいけない。虚構を信じることによって社会の秩序が保たれているのなら、カオスに陥った時は憲法の規定に頼らざるを得ない。2024年1月現在、日本国憲法第20条にて信教の自由が明記されている。すべての信教はその信仰内容や対象によって、差別を受けたり、糾弾されるべきではない。ある個人が悪と見なす事象は、その個人が育ってきた環境や触れてきた情報、そして経験してきた事によって悪と判断されるのであり、すべての個人は異なる環境、情報、経験の組み合わせを得ている。したがって、絶対悪を決めることはできない。他者の考えに耳を傾け、理解に努める姿勢を持って議論を進めないといけない。
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